夏の友

宿題

2月13日(日)あめ 束縛

1月下旬に1日あたりのアクセス数が80件を超えるという現象があったことに今気がつく。
心当たりがなくて(何かの攻撃…? 陰謀……?)などと心配をしてみたが,確証はないがその心配はないと思う。
ムーンライトながら乗車記へのアクセスだったのではなかろうか。ならいいや。


例のように,日記や手帳はひと月前に止まってしまっている。
確か今年の目標は日記に書いた気がするが……と思って開いたら書いてなかった。
そう,今年の目標はベンチプレス70kgを挙げることだ。
年が明けてから私は人が少し変わったようで,よくトレーニングルームを一人で占拠している。
年が瀬には60kgに死にものぐるいで食らいついても,顔を真っ赤にして潰れていた。
そこで,そういうふうに目標を掲げてせこせことやっていたのである。

そしたら,70kgが挙がってしまった。しまったとはなんだしまったとは。
先輩から「セーフティつけてハチャメチャトレーニングするのも時には大事」と言われて,それを信じて数回,60kgに食らいついていた。
アセンディングセット,すなわち回を追うごとに重量を上げていく方法で筋力増強を狙ってやっていたのだが,
それが功を奏したかはわからないが,70kgが挙がってしまった。半信半疑である。それが2月入ってすぐである。

そうなってしまったら楽しいわけで。
スクワットにも挑戦して脊柱起立筋のあたりを派手に筋肉痛で炎上させたり,休日もせこせことトレーニングルームに通っていたのである。
この3連休も例に漏れず,そのつもりであった。金曜と日曜に,残業ついでに行こうと思っていた。

休日は管理鍵の貸出を受けるため,誰でも学校に来れるわけではない。
日曜日には隣席の同僚が来る予定になっていることが,貸出簿から分かった。
金曜日に来た時点で何となくそれが頭に引っかかっていて,土曜日にもなんとなく二の足を踏むような感じがした。
同僚はいつもニコニコしている一方せっかちで,どうも休日に隣席で僕が仕事をしていると落ち着かないらしい。
落ち着かないのはこちらとて同じで,しかしそこまで露骨に出しているつもりはない。
あるとき,同僚氏がちょっと強めに「何時までいる?」と言ってきたので,なんとなく察してしまった。
それがどうも引っかかってしまって,別に顔を合わせるのが嫌だとかは全然思いもしないが,なんとなく休日に顔を合わせるのが嫌で今日は学校に行かなかった。

変わりになんとなく今日は部屋の片付けをした。
別の同僚がこの学校を去ることが決まっていて,引っ越しの折に服を捨て続けているとのことを聞いて,さっそく感化されて断捨離をした。
タンスの肥やしになっているものはちょっと減らした。
この日記に付けたかどうかは忘れたが,僕も引っ越しをしたい。転勤がなければ,物件を探して実家を再び去りたい。
その理由もいくつかあって,やっぱりなんとなく親と顔を合わせたくないような気分の日もある。
後ろめたいことをしているからではない。
他人に束縛されたくないのだ。それだけ。
引っ越しをするなら荷物は少ないほうがいい。仕事着と,何気なく着られる適当なシャツとスウェットがあればいい。
ピントこそ定まっていないが,青写真は自分の頭の中にはある。


そんなわけで,ちょっと後ろ暗い引きこもり生活のもったいない3連休でした。

12月31日(金)ゆき いまできることとは

必ず大晦日にはブログを書いていると思う。それは誕生日だというネタがあるのが1つの理由で、それ以外はさぼってきた自分への罪滅ぼし的な要素もある気がする。というかだいたいそれである。

 

29歳になってしまった。それが割と嫌で、歳をとることに対してここ何年かで一番抵抗感が強い。30歳に片足を突っ込む年。人間ドックが課される。アラサーでなくサーになる。生徒との年齢差も確実に開く気がしてしまう(気のせいではない)。

大台に乗るとはそういうことで、この半年間ぐらいそれが気にかかって仕方がなかったのであった。

 

じゃあその半年間ぐらい何をしていたかというと、1年生の担任だ。担任4回目にして「後輩に伝えたいことを考えてね」とか「若い人にそのプリント共有してあげてよ!」なんて言われる始末である。いやまだ教員7年目ですけど…なんて言っていても仕方ない。現実問題、後輩はたくさんいる。そういう圧を受けながら、なんとなく30歳のカウントダウンが始まった気がしていたのである。

8月にはオンライン授業。岐阜県の判断は英断か、それとも愚策かは分からない。そのせいで授業進度は遅れたが、感染被害を避ける1ヶ月間には意味があった。そもそもオンライン授業が発信できる設備があったのは、岐阜県の大きなアドバンテージだった(のに、宣伝がヘタクソだから目立ってない。そこだよ)。その整備と試行錯誤した夏だった。

秋から学年の成績が如実に落ち、大きな危機感を持ちながら叱ったり褒めたり仕掛けを作って奮闘したつもりだ。深夜まで毎日仕事していたら流石に風邪をひいたのがつい先日。あー、走り抜けた。自分の首を絞めながら感慨に浸る。

 

そこで立ち止まると、この半年、自分に投資していただろうか。時間を割いて取り組めたことは何だ。

筋トレは頑張った。夏のオンライン授業のときは夕方に早く上がれた分、時間をかけられたと思う。

一応、ベンチプレス60kgは1度上がったけどそこが壁だ。55kgへ挑戦していないのがダメだと思う。来年は70kg挙げられるまで頑張る。スクワットとか懸垂とかも頑張る。

で、勉強面。複素解析で留数定理まで、そして今更線形代数をやり直し始めた。これぐらいは高校生に教えられるぐらいじゃないとダメだと思った。

結局、自分の頭で勉強したことがなかったのだ。本を噛み砕いて、自分のことばにする力が高校数学の範囲でようやくできるようになってきた(3年生の授業を毎年持っているおかげだ)。いま、ベクトル空間の次数を定義しようとして苦労しているのはめちゃダサいけど向き合わなければもっとダサいと思った。

*1

 

鉄道旅は割とできた。先日のムーンライトながらの旅のように、残さないと残らないから整理しよう。

オミクロンがどうなるか次第だが、隙を見ては行く。

 

2021年はそんな感じだ。ちょっとだけ自分への自信が増したかな。

ちゃんと発信しよう。そう言い続けて幾星霜。

アウトプットするにはインプットが大事。コミュニケーションするにはアウトプットすることが大事。ということは…?

 

来年こそ良い年になりますよう。

*1:※流石に補足。ここら辺、線形代数の世界で勉強するのを逃げて一般の本でやっていたから、世界本を読んで苦労しているのが正しい。世界本の考え方がすべてではないとも思っておるよ。

12月26日(日)はれ 日記を紐解く

東京五輪への恨み節を飾ったまま放置しておりました。
あれから岐阜県の高校は臨時休校&オンライン授業になり,それが明けてからというもの,怒涛のような日々を過ごしていました。
働き方を無茶苦茶にしてみたところ,無事に久しぶりに風邪を引きました😆
37.5℃まで発熱するとぞっとしますね,このご時世。
以上,時候の挨拶でした。


本題。登録しっぱなしのTumblrを消し飛ばした。
この夏の友を立ち上げる1年前まで(2017年まで),デザイン性だけに惹かれてTumblrでブログを書いていた。
が,インターフェースは悪いし,段々と息苦しくなってくる感じもするし,やめた。
その時は教員生活で一番つらいときだった。初担任がうまく行かず,パワハラは受け続け,誰も助けてくれずに孤立。
触れづらい変人であることを差し引いても,誰か助けてくれても良かったのではないか。
心療内科に通い始めたところで血相変えて助け舟を出してくれた人もいたなぁ。……置いておいて。
書くというモチベーションもなく,放置して初担任の年を終えた。
その翌年は(おそらく配慮してもらって)副担になり,だんだん暇を持て余してきたところで,このブログをはてなで立ち上げたのであった。

Tumblrで書いていたことなんて何だったか忘れていた。定期的にメールが届いて,ブログを見ろと催促されるものの,食指は動かぬ。
今日,ぷつんと何かが切れて「あーあのメール鬱陶しいわ解約しよ」というところで,記事の移行を始めたのであった。
結局,原始的な移行の仕方しか通用せず,一つ一つの記事を読みながらコピペし続けた。

当初はクリックひとつですべてを消し飛ばすつもりだった。
そのつもりで,ちょっとだけ覗いてみたところ,主に綴られていたのは大学4年生の頃の日記だった。2014年だ。
初めて夜行列車「ムーンライトながら」に乗って,鎌倉観光をした大冒険だ。
正確には,きっぷは友人に取ってもらった。今思えばあの競争率の高いきっぷを取ってくれなんて,気軽にも程がある頼みをしてしまったんだろうと,移行作業をしながら頭を抱えた。本当に感謝している。今のところ人生唯一の乗車体験なのだから,あれは間違いなくナンバーワンの時間だった(居住性は最悪だった)。

あと,孤独をこじらせて気持ちの悪いポエムをいくつも生やしていたのでそれらは闇に葬った。
でも,せっかくなのでいくらかマシなものは残して,このブログの過去として植え替えることにした。
今読むと鳥肌が立つ。高校生のときの作文を読んだときの大学時代を思い返すと,同じような感覚を持った気がする。発酵して異臭を放っていたものはきちんと消し飛ばした。


そんなわけで,思わず日記を紐解いてしまったのであった。
本音を言えば「ムーンライトながら乗車記」を残しておいておきたかっただけなのだが,まあ,ついでだ。
「乗車記」は,思った以上にみずみずしく書かれていて驚いた。新鮮で,世界が広がった感覚がうれしくて仕方なかったのだろう。そんな在りし日の自分を懐かしむ。

7月26日(月)

始まってしまった某イベントについては,これ以上色々言わないことをする.
ただ,共感したエントリーを書き留めておきたい.

comemo.nikkei.com


blog.515hikaru.net


www.youtube.com


ここ数日,MIKIKO先生の話が再燃している.
だいたい,そこらへんに関わる話には広告代理店だったり政治屋が幅を利かせていて,「文化の源泉埋め立ててビロードの安普請」じゃあないかと思う.目先の金や支持率だけを求めた結果よ.

open.spotify.com

7月25日(日)はれ あの日の宴

今週のお題「寿司」

ご無沙汰である.今年は夏休みが来たので*1,夏の友を稼働させたいと思う.できる限りやります.


夏休みが始まったということは,三者懇談が終わったということである.一昨年であれば,終業の日に納涼会があるのだった.それが叶わないので,職員室で「お,(宴会会場に行く)バスもう来てるんじゃないの?」とかいう冗談を皆で飛ばしていた.僕は「飲み会に行くために三者懇談頑張ってる節もあるわけじゃないですか!」と半ば叫んだ.間違いねぇと皆さんの賛同を得た.職員が一体となった瞬間である(そんなに起きないことである).

最後の宴はいつだったか.日付を告げると角が立つので言わないが,2年前の年度の終わりが近い頃である.俺らはこのまま3年生に持ち上がるんだろうか,と戦々兢々としていた頃だ.結果そのまま持ち上がったわけであるが,その頃には職員配置は内々に決まっていたのかもしれない.だからか,超極秘で会を催す運びとなった.

あの頃といえば,最後まで僕は学校に馴染みきっていなかったなあとひたすらに思う.その日,大先輩にたまたまであるが車に乗せてもらった.ぎこちない会話しかできなかった.人間関係を作ることが下手だ,自分よ.しかし,帰りの電車で隣のクラスの担任と,酔いの力を借りてちょっと腹を割った話が初めてできたことを覚えている.意見は対立したが,互いにそういう考えもあるよねと言い合った.何の話かは忘れた.

「握らない寿司」は一般に高級店という感じであるが,職員行きつけの店がある.出前でも何度も世話になっている.少し埃のにおいと年季の入った柱のある田舎の座敷に,学年会の正担任6人が集った.会ではビールを学年主任自ら注いで頂いた.有名な武将も同じことをやったらしく,学年主任はそれがやりたかったらしい.いかにも彼らしい趣だと思った.今年その先生は自分の隣の席であるが,昨年度,すなわち持ち上がった後まで割といけ好かない部分があったが,今年は何故か打ち解けている.苦難を乗り越えたからだろうか.心境の変化は不思議である.

その寿司屋ではいろいろ出てきた.寿司ももちろんだが,鍋に小料理に,酒を飲まなければいけないのに腹一杯に旨い料理を出してくれるからいいものである.こんなに頂いてよいのか,破格のコースである.それも田舎の町の小さな店だからこそできることなのであろう.おかげで寿司の印象が薄い.他に覚えているのは,親戚の集まりのようでもあり,大学のサークルの飲み会のようでもあり*2,慎ましやかなれど充実した時間だった.人生の中で酒を飲んだ回数はそれほど多くないと自負しているが,この夜は指折りのいい酒だった.

時期を考えれば2次会はできない.1次会で腹いっぱい,程よい酩酊,気分もよくお開きとなった.僕は先に書いたように,電車に乗るために駅に向かった.そのとき,多分そのとき,「これが最後の飲み会かもしれない」と思った.口にしたかどうかは曖昧である.2年余り経った今,本当にそうなっている.あの日以来,日に日に状況が悪くなっていって,まるで映画の中の登場人物の一人のような,変な非日常感を味わっていた.社会がどんどんおかしな方向に傾いていき,皆が苦しむ中でも,その寿司屋はまだ営業している.田舎でも店を畳んだという知らせはいくつも入ってきた.僕は恩返ししなければいけない.早くその店に行きたい.今はあの日の宴が遠く遠くで輝いていて,ただ懐かしい.

*1:去年は授業数の確保とかいう名目でお盆休みしか与えられなかったのだ.気が狂っている.

*2:僕はサークルに入らず,ついでに友達にも乏しかったので想像上のものである.ぴえん

3月11日(木)はれ

10年前のこの日は金曜日でしたね.

僕は被災していない.10年前,初めて震度3の揺れを経験して,夜中に長野県栄村の地震にまた揺り動かされてよく眠ることもできず,翌日の昼間にうとうとしていたら原子力発電所が爆発していた.でも,大学には通えたし,家族を失うこともなかった.バイトも楽しかったし,勉強もこの上なく自分の財産になったし,無事に就職もできた.震災についての当事者意識は薄い.そんな冷たい人間である.

しかしただただ,10年という時間に思いを馳せている.高校3年生を卒業したあとのその日の記憶は他の日に比べてやっぱり鮮明である.だから,ついこの間高校3年生を担任の立場で初めて送り出せたことに感慨が深い.今の肌感覚も心も,18歳のときのそれと何ら変わらないような気がしているのに,本当に遠くまで来てしまったと思う.

昨日,自分のクラスではない生徒たちがもう髪を染めて「お世話になりました」と会いに来てくれた.明るい茶髪になった生徒とは,個別指導で秋から付き合ってきた.面接指導でこれでもかと厳しく深くいろいろ追求した.2次試験の問題も一緒にたくさん解いた.記憶の中の彼の姿と違う,背伸びした姿が現れてこっ恥ずかしいような,照れくさいような気持ちになった.もしくは,ここからの旅立ちが間もない寂しさを隠そうとしていた.互いにいつもの軽口をたくさん叩いた.けど,最後にはその明るい頭を下げて「お世話になりました」と心を込めて伝えてくれた.なんだかそれが凄く胸に迫ってきてしまって,危うく涙をこぼしそうな感じがしてしまった.昨日の夜は帰宅してすぐに普段はしない晩酌をして,ハイペースで何もかもを流し込んで,布団に飛び込んだ.

そうそう,その中の1人は教員志望なのだ.去り際に「岐阜に戻ってこいよ」と言ったらうーんと苦笑いをしていた.「確かに給料でいえば名古屋市とかのほうがいいからなぁ」,そうなんですよね,もうちょっと迷ってみます,と彼は言って,部屋をあとにしようとした.僕はそこで何を言おうか迷ったと思う.でも不思議と口は動いていた.

「それは間違いない,けど僕は岐阜県を選んだ.その理由はなにか,考えてみるといい」

気障なことが言えるようになったと思う.でも,真心であることにも違いなかった.その答えは,自分を育ててくれた岐阜県に恩返しがしたかったからだった.今度は自分が導く番だと,キラキラした10年前の自分は思っていた.これは今も,そんなに変わっていないかな.

津波に,放射性物質に,ふるさとを消し去られた人がいる.同じ国の人だ.いつ自分が同じ目に遭ってもおかしくはない.10年前に比べて,大切な人も増えた.最後に会いに来てくれた教え子たちもそのうちの仲間だ.彼らも,残酷な運命に襲われるかもしれない.昨日こうして笑顔で別れを告げられたのは,当たり前のことではないと思う.テレビの中で朝から涙を流している人と自分は一体何が違うのだろう.


今日は授業のない日だったので,部活があった.部長が,はじまりの礼のときに黙祷をしようと言った.大切なことだ,と部員たちは祈りを捧げてからいつもの部活に入った.震災復興のためのボランティアにも義捐金にも手を付けていない僕が,東日本大震災に苦しむ人々に向かって何かをしただ考えただと胸を張って宣言するのはおこがましい.だから僕は,心温かな子どもたちのためにやれることをやろうと思います.そして,そんな子どもたちに囲まれて生きていられることを誇りに思います.

2月8日(月)はれ 風つよい

 今日はいろいろやった.朝は5時半に起きて散歩をした.雪の舞うなかちょっと痩せ我慢をして30分ほどぶらぶらしていた.空が白む前の街の疎らな灯りはノスタルジックだと思う.できることなら明日も早起きして歩くことにする.

 それから,ちょっと手の込んだミートソースパスタをこしらえた.セロリパプリカたまねぎ鶏むね肉をフードプロセッサにぶちこんで,トマト缶と一緒に煮て最後にマカロニを加えた.野菜たっぷりのマカロニパスタなのだが,元は昨日見たマッスルグリルの減量食である.流石に炊飯器は使いたくなかったのでじっくり鍋で煮た.減量食じゃない感じで美味しい感じになってしまったが,果たして減量食になっているのだろうか.

 あと,「自炊してるんだ!! えらいね!!!!」と言われた.僕は好きでやっているのに義務感に駆られてしまった人がそう言ってくれた.別に自炊なんて楽しめなきゃやる意味ないと思うんだがなぁ.ねむいのでねます.