夏の友

宿題

エッセイ

などというとなんか気取った感じがするので、類義語を手繰ってみると「随筆」とか「随想」などという言葉が出てきます。
僕としてはこっちのほうがいいな。
「随」という漢字を見るとなんとなく平安時代の文学が連想されます。もしくは市販の縦書の便箋の名前っぽいなとか。
別に高級感を求めているわけではないのですが、なんかこちらのほうがしっくり来るのです。
伊集院光「のはなしし」を今しがた読了しました。
些細な切っ掛けで伊集院さんのラジオを掠め聴いているのが最近のブームになっていますが、
本屋にふらっと立ち寄ったときにこの本をを見つけて衝動買いしました。
テイストはラジオのトークをいくぶん柔らかく、万人受けする形にした感じです。
深夜の馬鹿力のあのどうしようもない勢いのあるトークを知っていると物足りない感じこそありますが、
彼の見た景色を様々覗き見ることができて非常に楽しいです。
しょうもない視点、メディアの舞台裏からの視点、人として弱いところからの視点、などなど、
これらのエピソードを読んでいると「彼も生きているんだな」と当たり前のことを思ったりします。
僕が学ぶべきことは幾つもあるのですが、それはやはり書き留めること。
瑞々しいうちに仕方のないことも調理していくのが、この本の原動力なのではないかなと思います。
ここ最近はこのブログも衝動的に書いたりなどしていますが、
やっぱりそういうことなんでしょう。その鮮度があってこその人間臭さじゃないでしょうか。
しかも、その一つ一つに教訓めいたことがなくてもいい。
流れていく景色の一瞬をつかまえた、それだけで良いような気がします。
所々に感じさせる彼の賢さやキャリアの賜物があってこそ成り立つものの、
「これを伝えるんだ」という信念の元にある素材の良さには勝てません。
「随」の字が示すことってこれではないのかな。
気がついたらすぐに筆を執る、みたいな。
ビビッと閃いて「これはミリオンセラーいけるで!!」と思って乱雑にメモして後から見たらただのゴミクズだった、ということは多々あります。
よく考えたら見事に有名作品と設定が被っていた小説のネタとか。ありますけども。
でもそれを厭わずに、自分の足跡を残せるっていうことはとても望ましい姿だなと思います。
そういえば最近、ほぼ日サボってます。あいや。