9月5日(水)はれくもり
話題のツイートである.
昨日、塾で英語を教えてるとき、複数形の話から「foot」という単語を例に挙げたら、その意味が「分からない」という生徒がいた。学年は中三で、テストでは決して悪い点を取るような生徒ではない。そこで、次のようなことをやってみた。
— kentaro isaka (@isa_kent) September 4, 2018
それに対する僕の考え方である.
僕だったら先に foot の意味を教えて,「フットボールとかフットワークとかって聞いたことあるかな?」って言うかな
— ひかみ (@coolplus099) September 5, 2018
あくまで持論だけど.何も材料を持っていない人間に「考えてみよう」は意味がないと思っていて,一度材料を与えた上で同じ不理解に行き着いたらそういうヒントを与えながら「考えてみよう」「思い出してみよう」とするのが適切かなと思う.
— ひかみ (@coolplus099) September 5, 2018
特に中学生は考えるための材料を断片的にしか持っていない生徒も多いし,勉強に嫌悪感を抱いた瞬間にシャットアウトしてしまう子も多いから,なるほどと思わせてモチベーションをつなげていかないと厳しい(経験談)
— ひかみ (@coolplus099) September 5, 2018
既に端的にまとめてしまっているが,「分からない」という言葉の裏にどんな気持ちが隠れているかを察するべきである.分からないから続けたいのか,分からないから距離をおきたいのか,問題はそこである.距離をおきたがっている子に頭ごなしに教えるとか,まさかではあるが「分からないとは何だこの阿呆が!」と憤慨するとか,それは駄目である.泣いている赤ちゃんが何故泣いているのかを考えるのと同じで,何を求めているのかで対処法が違うと思う.
個人的には,footもとい「フット」という日本語の関連語を想起させて意味を想像させるのは悪い方法ではないと思う.が,件のツイートの相手になっている中学生には毒にもなっているとも思う.今求めているのはそれじゃない,という感じが拭えない.
人は本当にやべえとか,しっかり知りたいと自覚したり,何より「ああなるほど!」と合点がいけば,自然と物事の吸収率が上がる.だからそういう風に持っていくのが教員の務めでありテクニックである.個人的には,あくまで個人的には,子どもの抱えている不満に寄り添うことができていないのは大きな損だと感じている.明日は我が身である.