夏の友

宿題

3月11日(木)はれ

10年前のこの日は金曜日でしたね.

僕は被災していない.10年前,初めて震度3の揺れを経験して,夜中に長野県栄村の地震にまた揺り動かされてよく眠ることもできず,翌日の昼間にうとうとしていたら原子力発電所が爆発していた.でも,大学には通えたし,家族を失うこともなかった.バイトも楽しかったし,勉強もこの上なく自分の財産になったし,無事に就職もできた.震災についての当事者意識は薄い.そんな冷たい人間である.

しかしただただ,10年という時間に思いを馳せている.高校3年生を卒業したあとのその日の記憶は他の日に比べてやっぱり鮮明である.だから,ついこの間高校3年生を担任の立場で初めて送り出せたことに感慨が深い.今の肌感覚も心も,18歳のときのそれと何ら変わらないような気がしているのに,本当に遠くまで来てしまったと思う.

昨日,自分のクラスではない生徒たちがもう髪を染めて「お世話になりました」と会いに来てくれた.明るい茶髪になった生徒とは,個別指導で秋から付き合ってきた.面接指導でこれでもかと厳しく深くいろいろ追求した.2次試験の問題も一緒にたくさん解いた.記憶の中の彼の姿と違う,背伸びした姿が現れてこっ恥ずかしいような,照れくさいような気持ちになった.もしくは,ここからの旅立ちが間もない寂しさを隠そうとしていた.互いにいつもの軽口をたくさん叩いた.けど,最後にはその明るい頭を下げて「お世話になりました」と心を込めて伝えてくれた.なんだかそれが凄く胸に迫ってきてしまって,危うく涙をこぼしそうな感じがしてしまった.昨日の夜は帰宅してすぐに普段はしない晩酌をして,ハイペースで何もかもを流し込んで,布団に飛び込んだ.

そうそう,その中の1人は教員志望なのだ.去り際に「岐阜に戻ってこいよ」と言ったらうーんと苦笑いをしていた.「確かに給料でいえば名古屋市とかのほうがいいからなぁ」,そうなんですよね,もうちょっと迷ってみます,と彼は言って,部屋をあとにしようとした.僕はそこで何を言おうか迷ったと思う.でも不思議と口は動いていた.

「それは間違いない,けど僕は岐阜県を選んだ.その理由はなにか,考えてみるといい」

気障なことが言えるようになったと思う.でも,真心であることにも違いなかった.その答えは,自分を育ててくれた岐阜県に恩返しがしたかったからだった.今度は自分が導く番だと,キラキラした10年前の自分は思っていた.これは今も,そんなに変わっていないかな.

津波に,放射性物質に,ふるさとを消し去られた人がいる.同じ国の人だ.いつ自分が同じ目に遭ってもおかしくはない.10年前に比べて,大切な人も増えた.最後に会いに来てくれた教え子たちもそのうちの仲間だ.彼らも,残酷な運命に襲われるかもしれない.昨日こうして笑顔で別れを告げられたのは,当たり前のことではないと思う.テレビの中で朝から涙を流している人と自分は一体何が違うのだろう.


今日は授業のない日だったので,部活があった.部長が,はじまりの礼のときに黙祷をしようと言った.大切なことだ,と部員たちは祈りを捧げてからいつもの部活に入った.震災復興のためのボランティアにも義捐金にも手を付けていない僕が,東日本大震災に苦しむ人々に向かって何かをしただ考えただと胸を張って宣言するのはおこがましい.だから僕は,心温かな子どもたちのためにやれることをやろうと思います.そして,そんな子どもたちに囲まれて生きていられることを誇りに思います.