夏の友

宿題

5月2日(土)気温30度のはれ 被覆空間と在りし日の思い出

珍しく酔っ払っている.

例の膵臓がNHKでやっていたらしい.原作を読んだ上で書くが,アレはどうも自分の肌に合わない.展開の仕方がどうとか,いろいろ難癖つけてみたくなってしまうが,根本はそれではない.根本は同族嫌悪なのだ.中高といろいろをこじらせて書いていた小説もどきを,自分で読んでいるのと同じ感覚になってしまう.感動を仕掛けるポイントが,自分の妄想と重なる部分が本当に多いのだ.ひどいときは何かのサントラをかけながら執筆して,自分の作品のドラマ化すら妄想していたのも思い出す.

……とは言いつつも,膵臓は出版されてメディアミックスもされている.自分の作品はHDのどこかに眠っている.差は歴然である.所詮,大志を抱いただけの高校生などその程度である.今でこそ未練を断ち切って,エッセイのようなものを綴る方に転向したわけだが,大学時代はまだ引きずっていたかな.目が覚めたのは社会人になってから.そこらへんの話は過去に書いたと思う.いい感じに美化されていると思うので,矛盾が生じそう.深く書くのは(今は)止めておく.

ところで,人生は螺旋階段のように,高さは違えど同じ部分に影ができるようにぐるぐる回っていくものだと思う*1.数学的に言えば複素対数関数のRiemann面*2のようなものである.高さが見える景色が違うから別の体験をしているようで,影を追ってみると,考え方も趣味嗜好もそんなに変わらない気がする.何が言いたいかというと,結局小説作品を見て自分に重ねようとした自分がいることに気づいたわけである.なんかもっと豊かな例えとか引用とかができたらかっこよいなと思う.でも,こう思うこと自体,高校生のときに持っていた憧れとそれほど変わっていない.だめだこりゃ,である.

生活の中の自粛を考えると,今の高校生はどれほど鬱憤や不安を抱えているのだろうと察するに余りある.ただでさえいろいろな夢を抱いている時期である.本当だったら……と続ける言葉は枚挙に暇がない.今やれることは我慢と勉強,と言い続ける僕にも流石に罪悪感が浮かんでくる.自分が高校2年生のとき,2009年も実は新型感染症が流行った.新型インフルエンザである.薄ぼんやりと非常事態だったことを覚えている.僕はクラスで2番目に罹った.でも,年が明けたら大変だなで終わっていた.翌年の文化祭でこれまた大変こじらせた作品を部誌に寄稿して,受験勉強に入った.そんな程度だった.「今この瞬間」を捉えるのに過去を持ち出し続けるのも如何かと思うが,今夜はそういうことばかり思い出すのであった.

今日の筋トレ:これって毎日日記書かないと記録にならないよね(自明).背中25分程度.しっかり「入れる」感覚がわかったのは2セット目だったので,1セット目からできるようになりたい.昨日やった胸の筋肉痛(未満の違和感)は夜になったら取れてきた.明日はウェイトを少し.

*1:この表現ができるようになったのは偏に被覆空間を勉強したからだと思う.ありがとう被覆空間.

*2:わからなかったらwikipediaの図を見られたい.